発達障害者(ADHD)として生きています。

成人後に発達障害 「ADHD」 の診断を受け、その後癲癇(てんかん)も発症。障害者雇用で就職するも、体調を崩して退職。現在は自宅療養中。

「私が(当時)未熟児で産まれた日」

更新がおそくなりました。

最近はうつ症状も多少治まり、少しずつですが、外に出られるようになりました。


職場のモラハラによる退職については、いずれまた。



では、本題に。


私は、母が38歳5ヶ月の時に産まれました。

母は私の母子手帳を

「どこにしまったかしら」

と言うような性格なのですが、予定日よりおおよそ2ヶ月半、出生時の体長は40cm弱、体重は1170gとのことでした。


これは私が小学生の頃、自分史を作るという授業で母から聞いたことですが、産まれてから4ヶ月間、保育器に入っていたそうです。


この聞き取りの際、母から


「パンダの赤ちゃんくらいだった」

(いつの月齢の話か)


とか、


「茶筒に頭と手足があるくらい」


と、他に表現方法はないのか、母よ…

AB型だから?と思いましたが、ずっと見ていて、おそらく母もその傾向かと思います。


保育器から出て退院した後も、目が見えなくなるか、視力が弱くなるかもしれないと言われたそうで、フルタイム勤務で兄二人もいて、

共働きで実家で同居とはいえ、母は大変だったと思います。


私の感覚が機能しているか、どこかの施設で調べてもらった際、足首を掴まれ逆さ吊りにされ、

お尻を叩かれ泣く私を目の当たりにして、こんな所には二度と来ない!と言っていたのが忘れられません。


当時は発達障害の定義も何もなかったでしょうし、とにかく無事に育てばと思ったと思います。


また書く予定はありますが、小学生の頃からADHDの本領は発揮していましたので


変わった子・変な子


がなぜ


普通のこと・当たり前(と言われること)


が出来ないのか、行動や衝動等について、自身の経験を語っていきたいと思いますので、ごゆるりとお付き合い頂ければ幸いです。



最後に、私がこんな状況で就労もままならず、障害者手帳を取得するに至った経緯を次兄に話した時に、掛けてもらった言葉。


「みんな違くて、みんな良い」


兄も、自分もその気質はあると言っていました。

そんな兄は好きな分野を見つけ、幾つも資格を取って働いています。


今挙げた3人、みんなAB型です。

変わってるのは誉め言葉と受け止めておきます。


そしてお母さん、仕事も出来たり出来なかったりで、今も面倒を見てもらっていて申し訳ないけど、高齢出産を責める資格は誰にもないし、私は生きられているだけで幸せです。


産んでくれてありがとう。

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