発達障害者(ADHD)として生きています。

成人後に発達障害 「ADHD」 の診断を受け、その後癲癇(てんかん)も発症。障害者雇用で就職するも、体調を崩して退職。現在は自宅療養中。

ブラック企業退職から現在まで〈遅れてすみません〉

随分と更新が滞りまして、すみません

今回は現在の状況を先に書かせて下さい


年度末前に退職した職場にて、退職日当日に定期検診があり、予約を申し込んだのに検査キットをもらえず、直の上司に報告したところ、後ろの島の人事から聞こえるように


『え、受けるの?』


と、パワハラを受け…

最後の権利を行使させろ!

と、出るとこ出ようかと思いました←



結果、要再検査にて


・慢性胃炎(ピロリ菌感染疑い)


・大腸ポリープ



と診断を受け、内視鏡手術で地獄をみるという…

一応結果は大丈夫でしたが、先生に


『大腸内視鏡検査は、来年の秋頃にまた受けて下さい』


と言われる(´Д⊂


オペ直前に初めて血圧の上が100を切って倒れたり(オペは強行)、先生に


『(ポリープ)見つからないなあ』


と呟かれ、ベテラン先生の助言を受けるため、看護師さん含め5名くらいに囲まれたり、右見ろ左見ろ、仰向けで膝立てろ、もうイヤー!


でも検診を受けなければ、区の検診まで見つからなかったと思うと、あの■ズ会社でも役に立ったな、と思いました



障害者雇用のなんたるかも学ぼうとせず、助成金目当てに障害者を食いつぶすような会社には、二度と当たりたくないです


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これからは、もう少し更新頑張ります。

今のうちに治せる疾患を全て見ないと。


皆様も、どうか元気で

お気をつけて

幼少期の多動傾向(長文です)

今回は幼少期の行動について、今にして思えばあれが兆候であった(と思われる)ことを書きます。

あくまで私のことなので、もし当てはまることがあっても「あるある」くらいに思って頂ければ。


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1.忘れ物

語るに避けて通れません。

通知表に何度書かれたか…

前日に準備したはずなのに入ってない(そんな訳ない)

ランドセル以外の手荷物も高頻度で忘れました。

上履きを届けてくれた兄よ、ありがとう。

(これは今でも治せないのが不甲斐ない)


2.提出物

返信が必要なプリントやら宿題やら、帰宅してランドセルを開けていたかも怪しいところ。

(記憶にございません)

過去最大にひどかったのは、中学の夏休みの課題テキストを丸ごと紛失したこと(!)

捨ててないと思いますが、迷宮入り。


3.興味のあることには熱心 (喋りすぎ)

これは前回少し触れましたが、自分の好きなことになると周りが見えなくなり、空気も読めないため、その結果クラスメイトに

『聖闘士星矢の話ばかりしないで』

と、たしなめられる。


4.集中力が続かない

興味があちこちに移ると、どうしようもないです。

面倒なことも後回し、明日出来るなら明日で…と、片付けられない女が現在実家で二人暮らし(父は他界)のため、想像を絶するゴミやs…()


私に

『段ボール箱を畳んで資源に出せ』

という母は、チラシや書類を何でも詰める袋地獄なので、どっちもどっち。

黙って袋の中身を捨ててやろうかと思いましたが、どこぞにお金でも挟まっていたら困るので、そこは慎重に(モズのはやにえ)


母は先日も財布がないと騒ぎ、私が見つけて置き場を決めてと言えば、礼もそこそこに私も掃除してないと反論する、

将軍様か、といつも思います。

自分の非は断固認めないので、言うのも面倒になりますけど。


こうして話が脱線するところもそう、とにかく落ち着きがない。


5.注意力散漫

これは中学での一生忘れない事案


「テストの問題が両面プリントだと気付かず、1枚足りないと申告」


元々問題用紙も2枚あったとはいえ、なぜ裏を確認しなかったのか自分、という記憶。

担任教師の冷ややかな視線が忘れられないです。


他にも、教師から鉛筆の芯を削れ、消しゴムが小さいから大きいのに代えろという忠告を聞かない、小1から反抗期みたいな生活でしたけど、なぜ人格形成に歪みが生じたかは、次回にでも。



自身の恥を晒しても、過去を見つめ直し、自分はダメ人間だと責めることを止める為の作業を、しばらく続けます。

「私が(当時)未熟児で産まれた日」

更新がおそくなりました。

最近はうつ症状も多少治まり、少しずつですが、外に出られるようになりました。


職場のモラハラによる退職については、いずれまた。



では、本題に。


私は、母が38歳5ヶ月の時に産まれました。

母は私の母子手帳を

「どこにしまったかしら」

と言うような性格なのですが、予定日よりおおよそ2ヶ月半、出生時の体長は40cm弱、体重は1170gとのことでした。


これは私が小学生の頃、自分史を作るという授業で母から聞いたことですが、産まれてから4ヶ月間、保育器に入っていたそうです。


この聞き取りの際、母から


「パンダの赤ちゃんくらいだった」

(いつの月齢の話か)


とか、


「茶筒に頭と手足があるくらい」


と、他に表現方法はないのか、母よ…

AB型だから?と思いましたが、ずっと見ていて、おそらく母もその傾向かと思います。


保育器から出て退院した後も、目が見えなくなるか、視力が弱くなるかもしれないと言われたそうで、フルタイム勤務で兄二人もいて、

共働きで実家で同居とはいえ、母は大変だったと思います。


私の感覚が機能しているか、どこかの施設で調べてもらった際、足首を掴まれ逆さ吊りにされ、

お尻を叩かれ泣く私を目の当たりにして、こんな所には二度と来ない!と言っていたのが忘れられません。


当時は発達障害の定義も何もなかったでしょうし、とにかく無事に育てばと思ったと思います。


また書く予定はありますが、小学生の頃からADHDの本領は発揮していましたので


変わった子・変な子


がなぜ


普通のこと・当たり前(と言われること)


が出来ないのか、行動や衝動等について、自身の経験を語っていきたいと思いますので、ごゆるりとお付き合い頂ければ幸いです。



最後に、私がこんな状況で就労もままならず、障害者手帳を取得するに至った経緯を次兄に話した時に、掛けてもらった言葉。


「みんな違くて、みんな良い」


兄も、自分もその気質はあると言っていました。

そんな兄は好きな分野を見つけ、幾つも資格を取って働いています。


今挙げた3人、みんなAB型です。

変わってるのは誉め言葉と受け止めておきます。


そしてお母さん、仕事も出来たり出来なかったりで、今も面倒を見てもらっていて申し訳ないけど、高齢出産を責める資格は誰にもないし、私は生きられているだけで幸せです。


産んでくれてありがとう。